かるたの遊びの土台となった「小倉百人一首」の歴史

1235年、約八百年前に「藤原定家」が京都の小倉山にある別荘で
撰んだ百首の秀歌のことを「小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)」
という。

「小倉百人一首」を選んだ 藤原定家(ふじわらのさだいえ)は俗に
「ていか」と呼ばれている。

定家は歌友達であった、宇都宮蓮生(うつのみやれんしょう)のために百人一首を撰んだ。

蓮生は、定家の息子に自分の娘を嫁がせるほど、定家と仲がよく、現在の京都嵯峨野の近くの小倉山に別荘を建て、その別荘の襖(ふすま)の飾りに、百人の和歌をひとり一首ずつ選んで欲しいと、定家に頼んだのが理由で、現在まで人々に親しまれている百人一首が撰ばれたと伝えられている。小倉山の別荘のために選んだ、ということで、「小倉百人一首」と呼ばれている。

「小倉百人一首」は今から約1400年前の飛鳥時代から、800年前の鎌倉時代の人物が書いた秀歌撰であり、天皇や皇族、大臣といった、その当時の高い地位にあった人物から、中流の立場の人物、社会的には地位の無いお坊さんまで多種多様の作家の歌を選択。

定家は鎌倉時代の貴族であり、天皇にお仕えし、最後は権中納言(ごんちゅうなごん)という貴族のなかでは、中くらいの地位まで出世したが、歌を詠む才能は人一倍ずばぬけていたため、こうやって後世にまで言い伝えられている人物となった。

日本の和歌は、五七五・七七の31音節が5行で書かれているが欧米の詩は、通常、これよりもはるかに長いため、西洋詩全体をカードに印刷すること不可能であるため外国語かるた有名な英語の詩の有名な一節を引用し、つくられている。中には短い詩もあり、全ての詩を使っているものもある。